無茶苦茶でござりまするがな

怠惰なる日々、ふと思い付いた落書きメモ

戦国武将人気ナンバーワン!しかし織田信長の誤算は、いったいどの辺りから始まったのか?【居酒屋で麒麟がくる 弍】

人気先行にて毀誉褒貶を繰り返す人物評、織田信長とは?

居酒屋で麒麟ラガービールがくる。そんな時に「サラッと語れたらいい感じ✨」なるカモ~歴史ネタを書いてみました。今回はこのヒト↓↓↓

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織田三郎信長
<織田ノブッチョ しょの1 天下布武>

織田信長は、天正九年八月十三日のこと「信長自ら出陣し東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし日本全国余すところなく、信長の支配下に置く決意である!」と天下布武の意中を明かにする。

近代日本の扉を開ける「聖域なき構造改革!」コレを全面的に打ち出したのもこの頃。日の本すべて“信長の支配下に置く所存”「天朝様とて容赦しま宣言!」をしました。

 

<織田ノブッチョ しょの2 隠居宣言>

天正十年三月十一日。織田信長は、武田勝頼親子を天目山にて自害させた。高遠城を攻略した織田信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲る」と代替り宣言した。ででん!

はい、武家あるある「代替りには、お家騒動が必ず付き物!」このことは、トリガーとして充分な出来事でした。しかし、この時には、その悪い例⇒「武田滅亡」を見届けた筈なのにね、やっぱノブッチョ慢心したのかしら?

 

<織田ノブッチョ しょの3 本能寺 H>

六月朔(ついたち)の夜である。空に月はなく、漆黒の帷が本能寺をおし包んでいた。昼間より京の貴族や商人を集め催した「本能寺茶会」は満足な結果に終った。そしてひとが引け、静まった本能寺の片隅にて「本因坊 算砂と鹿塩利賢」が囲碁対局していた。

しばらくすると「盤上に縁起悪い三劫」ができ“三劫無勝負”となる。一方その頃「本能寺での馬揃」のため、夜を徹して京の本能寺へと粛々と進む軍団があった、その総勢は一万と三千。時は、天正十年六月二日未明のことでござったぁ! パパンパン!

 

<織田ノブッチョ しょの4 打開策無>

織田信長は、寝起き襲れ激おこプンプン!「こは謀反か、如何なる者の企てぞっ」森蘭丸に尋ねて、物見に行かせた「桔梗紋、明智が者と見え申し候 」と答え、信長は「で、あるか。是非に及ばず!」と言い放った。

しばし防戦したが、完全包囲されたことを悟ると、あっさりと寺に火を放ち自害して果てたと云う… マジっすか?ノブッチョさん、余りにも諦めよすぎではないかな、これドヤねん。なにかがおかしいと想うが。

 

<織田ノブッチョ しょの5 誰得推理>

信長と信忠親子は、明智軍と戦ってはみたが多勢に無勢、ハナから負け決定。そして暫定天下人の光秀くん♪だったハズだが、怒濤の中国大返しで舞い戻った「羽柴山猿連合軍」に山崎辺りでボコられて敗走する。

本能寺の変から十三日後にミッツーくんも都合よく消され(暗殺?)、チャンピオン候補が一気に三人も地上から消えた。

果たして、この大量粛清で好都合だったの、ドコのどいつだ~い?

 

○織田三郎/信長/上総介/右府様/第六天魔王

信長は尾張勝幡城で生まれた。子供の頃から“破天荒な行動”が多く、傾奇者の服装でねり歩き、栗や柿・瓜などを食べ歩きしたと云う。なので“大うつけ”と呼ばれた。信長の性格は「極めて残虐で常人とは違う、異なる感性」を持っていた。敵対者、裏切り者に対してはことさらに残忍であったと言われ、浅井父子と朝倉義景の三人の髑髏を「はくだみ」とし“酒の肴”としたのは有名な逸話、どうも“サイコパスの傾向”があったらしい。しかしその一方で“世間の評判”を非常に気にし、家臣や領民の意見も採用する柔軟性もあった。信長は日頃から武芸の鍛錬に励み、趣味として相撲、鷹狩り、茶の湯囲碁などに自ら励んだ。特に“南蛮文化に強い興味”をいだいていたらしい。最期には本能寺の変にて、明智光秀により弑逆された。享年四十九歳。

 

○おすすめ本/司馬遼太郎作『国盗り物語

も~面白いんだからァ~♪斎藤道三織田信長明智光秀のそれぞれ個性がぶつかり合い、下剋上の世、戦国時代を照射します。信長が道三を手本とし、光秀は信長を反面教師としたことが判りますね。

国盗り物語 後編 織田信長

国盗り物語 後編 織田信長

 

 

(1700文字)