無茶苦茶でござりまするがな

怠惰なる日々、ふと思い付いた落書きメモ

「打倒!織田信長」と叫んでいたのは、明智光秀だけなのかな?じゃ、ホントは誰なんだ~い?【居酒屋で麒麟がくる 壱】

秀吉の「天下盗りの絵図」を描いたのは、間違いなくこのヒト

居酒屋で麒麟ラガービールがくる。そんな時に「サラッと語れたらいい感じ✨」なるカモ~歴史ネタを書いてみました。今回はこのヒト↓↓↓

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黒田官兵衛 如水
<黒田アカンベー 1 たくらみ>

 

黒田官兵衛が、吉川広家に宛てた書状に…「関ヶ原での戦いがあともう一か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」とある。

いやいやいや、アンタ豊臣と徳川を両天秤にかけて、九州をマルっと盗るつもりだったでしょうが。「九州の内、七カ国を賜りたい…」とか言って。官兵衛どんは、ずいぶん広家さんと仲が良かったことが、伺えますね。て、ことは、またも毛利一族を利用して「ワンチャン狙っていた」のはあきらか。

 

<黒田アカンベー 2 たくらみ>

 

黒田官兵衛の号は、如水。これは老子の「上善如水」から採った名前。そうなのです、あの有名な日本酒では御座らぬ。その意味とは…「水は自らのその流れの力で、大きな物をも動かす。山を侵食し岩に穴を穿つことも出来る。しかし水流に触れても手には何も残らない」。

だから、如水を調べても証拠も何も残さない。ねっ、ホント喰えないオヤヂやでな。都合よく秀吉を担いで、一発ヤラかしたかったのですね。

 

<黒田アカンベー 3 たくらみ>

 

そもそも、本能寺事変前後の“天下取り構想の青写真”を画いたのは、軍師 黒田官兵衛ではなかったか? ならば、問題となるのは「本能寺の変」にどう関わったのか?! いや、逆にその時流を先読みして、先に突っ走っちゃったのが光秀だったのかも。

官兵衛の描いた仕掛けに、過敏に反応した光秀を「日向守殿、コトが早過ぎますぞっ!」 激おこプンプン丸「ならば是非もなし、もうヤルっきゃない」と、怒濤の中国大返し(コレはすでに手配済みだった)へ。黒策士の面目躍如や、恐るべし。ムムっ。

 

<黒田アカンベー 4 たくらみ>

 

明智光秀は縁戚で与力でもあった、細川藤孝父子の同意も得られず、また筒井順慶にも「洞ヶ峠」を決め込まれてしまう。とっくに近畿各所には官兵衛の“根回し”がされていたのでした。

天下分け目の天王山と言われた「山崎の戦い」では、要所要所をおさえて兵数でも圧倒する秀吉軍 総勢約四万に、光秀軍は一方的に押されまくりジリ貧。そしてついに勝竜寺城に籠城する。

すると官兵衛は、冷静に言い放ったのです。「東側に退路を空け、敵を逃すのですよ」そして逃げ出す所を、虜にすれば良いと。なかなか、怖いヒト。

 

<黒田アカンベー 5 たくらまない? >

 

関ヶ原の合戦後。徳川家康黒田長政に、福岡五十二万石を恩賞として与えた。そして如水にも領地加増を打診するが、如水はこれを固辞し隠居生活を選んだ。そして配下には冷たく振舞ったらしい。これは当主である長政の家臣団を固める意図があったという。

最晩年には上方と福岡を行き来して慶長九年、京の藩邸にて没しました。

曰く『予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績それらすべては、いまや“水泡が消え去るように去って行った”と言いながら、ジョスイすなわち“水の如し”と自ら名乗った』「フロイス日本史」より

 

黒田孝高/官兵衛/如水

軍略的才能に優れ豊臣秀吉の軍師として参画。調略や大名との交渉などに幅広い活躍をする。「竹中重治/半兵衛」とともに「両兵衛」や「二兵衛」と称された。播磨に出張って来た秀吉に「姫路城は播州統治の適地である」と進言して、居城であった姫路城本丸をポンと秀吉に開け渡す。毛利方の備中高松城攻めの際、巨大な堤防を築いて水攻めにしたが堰き止められなかった。孝高は多数の船に土嚢を積んで、底に穴を開けて沈めるように献策し、成功させた。備中高松城攻略中の六月二日。京本能寺の変起こり信長が横死した。翌日、このことを知った孝高は、嘆く秀吉をよそに「御運が開かれる機会が参りましたな!」と言った。そして、毛利輝元と和睦して光秀を討つように画策し、さらに「中国大返し」まで成功させた。筋書き通りか、官兵衛クロだ!

 

(1600文字、thank you for reading.)